家事と育児、どちらかにしてくれ
と、以前書いたことがある。
今は、家事育児に関して、わりと、どちらもやろうと思ってる。
具体的にいうと、
■家事は、できるようになるべきだし、なりたいと思っている
■家事は、時間をかければかけるほど成長できる
■育児は、価値のあるものだと思っているし、
自主的に選択した結果、納得してやっているけど、理不尽が多いな
という考えに行き着いた。
(自分が行う家事・育児に対する考えであって、世間のみんなもそうあれ、とは思っていない)
そして、「家事は母語学習、育児は外国語学習のようなものだ」、
というメタファーが思い浮かんだとき、しっくり来たのでここに書いておきたい。
家事は母語学習に似てる。
基本的にはどんな人も、食べるし、服を着るし、モノとのつきあいをしながら暮らしを送る。
「箸を持ってご飯を食べる」「服を着る・脱ぐ」といった身支度系まで含めるならば、
ひろーい意味では、誰もが、家事の一端に組み込まれているのだと思う。
それは、人が生まれたときから母語を与えられ、
母語によって思考を形作っていくのとすごく似ている。
母語は考えるために、そして人に思いを伝えるために不可欠なもの。
生まれ育つ過程で、家庭での手ほどきで、
食べたり着替えたり、できるようになった。
でもその先は、母語にも学習が必要で。
たとえば、ことわざとか語彙とかの知識を増やすと、
より適切に自分の考えを表現できるようになるし、コミュニケーションがはかどる。
ご飯を作ったり、部屋を整えたりといったことは、
しない人もしなくても済む人もいるけど、
私はするし、したいし、する技術が身につけばいいと思っている。
漢字が苦手、漢文の知識が乏しい、というような感じで、
家事にも苦手分野がある。
苦手だからまったくできないかというとそうでもなくて、
苦手なまま、なんとなくやりすごせちゃったりする。
でも、ちょっとした知識を持っていると、
今まで苦労してやっていたことが、思いのほか簡単にできたりする。
料理で言えば、
ハンバーグは全部を混ぜる前に先に肉と塩だけで混ぜておくと、
焼くときにばらばらにならないでおいしく焼ける、とか。
家事は、母語のようなもの。
いつもそこにあるもの。
やることによって、上達していきたい。
そして、子どもにも、その価値を教えたい。
あなたは母語である日本語をなくしては存在し得ないし、
同じように家事からも離れ得ないんだよと伝えたい。
あきらめて受け入れて取り組んでほしい、と思っている。
そして、育児は外国語学習に似ている。
英語学習は義務教育の課程に組み込まれているけど、
本質的には、外国語学習は意志のもとに学ばれるものだと思う。
私が英語を学ぶことにしたのは、
英語を学ぶことによって、自分の人生を深めたかったから。
そして、私が子どもを産んだのも、自分の意志。
とはいえ。
英語を学ぶ(=ここでは、子どもを産み育てることのメタファー)ことにしたけど、
こんなことになるとは当初予想もしていなかったことも多々ある。
■どうにもこうにも単語が覚えられなくてつらい
(育児中、常に眠い。集中力なし)
■このテキスト、すごくいいっていうけど、高すぎる
(便利育児グッズ揃えたいけど、お値段が…)
■こんなに受けなきゃいけない試験が多いの?
(半年~1歳児の予防接種多いな!)
■不規則活用動詞、いちいち覚えなきゃいけないの?めんどくさ!
(離乳食にはすり鉢が必要なの?あ、消毒しないといけないの?)
■やっぱりたくさんの人とコミュニケーションしたほうがいいんだよね
(児童館、公園連れ出さなきゃだめかな)
■急にみんなの前で英語しゃべらされて赤っ恥かかされた
(ショッピングモールで寝っころがって大泣きされた…)
英語を勉強することは決めたけど、
付随するこまごまとしたものまでは、了承したつもりなかった!
と言いたくなるようなことには、産後の育児ライフで、たくさん出会ってきた。
「…聞いてない!」のオンパレード。
ところで、
我が家の場合は第2子の育児は今に至るまで比較的困難は少なく、
英語の勉強のあとに韓国語の学習を始めたら、
「え?!」と思うくらいたやすくて拍子抜けしたというのも、
外国語学習によく似ていて。
■日本語と語順も文法もすごく似てる
(こうしたら喜ぶかな。あ、喜んだ。眠いのかな、あ、寝た。わかりやすい!)
■発音これでいいのかな。おお、通じた
(出したものは何でもよく食べる。そして便秘知らず)
英語を勉強する速度の10倍くらいの速度でレベルアップした韓国語。
とはいえ、どんな語学もそれなりに壁が高いように、
超級にいたるまでにはかなり時間はかかるはず。
手痛いしっぺ返しもあるかもしれない。
(そういえば、ハングル試験落ちたこともある)
まとめると、
家事は母語と一緒で、私から切り離すことができないものだと思っているので、
これからも粛々とやっていく心積もりはある。
外国語学習も自分の人生を豊かにするものだと納得してやっている。
だけど、
育児の、「ふたを開けたら思ってたんと違った!」という衝撃は大きくて、
だのに「自分で望んで産んだんでしょ」と片付けられてしまうのは結構つらい。
納得してやってるんだけど、「思ったようにいかなくてつらいんだよ」ということは、
誰かにわかってほしい気持ちをずっと抱えながらやってる気がする。
じゃあどうしたいの、と言われたら、
この思うようにならなさを結局は愛して、
私は生きていきたいんだと思う。
母語であれ外国語であれ、地に足の着いたことばを話す人と、
地に足の着いた家事をする人に、同じようにあこがれるから。
どちらも、「生活の鬼」だと思う。