農業経済学はまったくの門外漢なのだけど、
概論くらいは学んだほうがよいと思い続けてはや10年くらい。
いまだ延々と足踏みしており、ただただ足元の地面の土だけが固くなっていくだけなのだが、思いだけはまだまだそこにある。
今まで読んだこの分野の本で一番心に響いたのは、高校生向けの入門書。
筆者の矜持が伝わる、魅力的なタイトル。
ここのところ、私は子どもが通っている習い事のことや、自分自身のことを思うとき、私は農業経済学のことを考える。
著者は語る。
物やサービスを作り出す人々の営みには、物やサービスとは別に副産物を提供している場合があることだ。
とくに農業では、この副産物が重要なんだ。
たとえば、水田が地下水のかん養や洪水防止に役立っていることや、いつまでも飽きることのない棚田の景観なんかが、農業の副産物というわけだ。
植物を育てる営みだから、二酸化炭素を吸収し、酸素を供給する作用があることも重要だね。
これらの副産物を総称して、農業の多面的機能と呼ぶこともある。
というわけで、国内の農業の真の価値は、農産物そのものの価値と副産物の価値の合計だと考える必要がある。
農業の真の価値を前提にするならば、外国産よりも、国内で農業を営むほうがお得だというケースもあるはずだ。(p.164-165)
娘をスイミングに通わせようと決めたとき、私は2児育児でクタクタに疲れていた。
とにかくも、正当に、娘と離れられる時間を作りたい、というのが偽らざる気持ちだった。
「娘と離れる時間」が、私の求めた主産物。
かくして私は、毎週のスイミングの1時間を、オアシスの水のように大事に味わった。
一方、娘は、私が母子分離の1時間を堪能している間に、水に顔をつけられるようになり、頭までもぐれるようになり。
体も強くなった。
大好きな先生もできた。
いろんな副産物ができた。
そして、自分のことを思う。
私が専業主婦をしているのは、我が家の娘と息子という「お米」を無事に収穫することなんだけど、たぶんそれだけじゃなくて、副産物があるんだろうと思う。
なければ、と思う。
私がいることで、私は周囲に、なにがしかのいいことを生まれさせているだろうか。
ところが、現実の市場経済は副産物の価値を考慮することができない。
つまり、通常の農産物の取引の場面では副産物に対価が支払われることはない。
なぜならば、農業の多能的機能の多くは生産の現場から周囲に向かって自然にわき出ていて、日頃はほとんど意識されることなく、不特定多数の人々の元に届けられているわけだ。(p.165)
水田は、懐が深い。
私も、周囲の不特定多数の周囲に向かって、副産物をダダ漏れにあふれさせている人間になれたら。
あふれさせた副産物に対して、対価をつけないような度量を身につけられたら。
市場経済は副産物の価値を損得勘定に算入することもできない。
けれども、社会全体の利益という観点に立つとき、副産物の価値を適正に評価するべきであり、この点を含めてその産業のあり方について判断すべきだとするのが、オーソドックスな経済学の考え方なんだ。(p.165-166)
誰かが作ってくれた副産物をもらって大きくなった自分だと思う。
人生は、もしかしたらきっと副産物の産物。
人が、副産物を生み出す仕組みと、誰かが作ってくれた副産物をありがたく堪能できる仕組みが、世の中にたくさんあり続けますように。