つまがたり

どうでもいいことを、あーでもないこーでもないと大真面目に。2児の母が、悩みながら考えたことをつづりつつ、どうにか前に進もうとするひとり語りブログです。

私が英検1級を取得したときの話と、今の自分の英語教育観。

去年、大掛かりに断捨離したものの、

資格系の証明書などは捨てずに残している(当たり前か!)。

 

その中にこんなものも。

実は、英検1級持っているのだった。

f:id:umet:20180605093211p:plain

 

何で持ってるかというと、

大学時代、わりと一生懸命英語は勉強したので、昔取った杵柄的なやつ。

英語で生活したくて、大学を休学して交換留学するくらいにはのめりこんだ。

 

大学卒業後、英語をまったく使わない就職をしたけれど、

勉強したい欲求が高まり、準1級を取得。

上司(私を採用してくれた恩人)に「準1級受かったんです!」

と報告したら(この当たり私もコドモだね)、

「準1級?1級じゃなくちゃね~」と真正面からあおられ、

「ジジイ!!!」←声なき怒りの声

それをきっかけに、腹立ち紛れに1級受験を決めたのだった。

 

ちょうどそのとき大学院の受験も考えていて、

大学院入試の筆記試験に英語(長文の読解・翻訳)も含まれていたため、

「ちょうどいいや」と思ったのもあり。

 

大学院の入試とほぼ同時期に、英検1級も受験。

よく考えたら大学院入試の英語と英検1級の英語はだいぶ質が違うんだけど、

考え方が大雑把なので、

同じ英語だからいいだろと、勢いのままに受験。

 

それにしても、英検1級に出てくる単語って、なじみがないから覚えにくい。

ひとつ例を挙げると「epistemology」という語。

(「認識論」という意味。)

日常会話で使う機会のない単語を覚えることに多少脱力しながら、

一生懸命覚えたっけ。。。

 

確か受験の順番は、

1.英検の筆記試験

2.大学院の試験

3.大学院の合格発表

4.英検の面接試験

という順番だった。

 

無事大学院に合格を果たした後、

英語に対するモチベーションがめっちゃ下がったのだった。

「英検受けるのやめればよかった!」と、受験を後悔した。

 

真冬で、ホットのはちみつレモンでのどを潤しながら、

どうにかこうにか、面接へ。

面接試験は、忘れもしない、

「”意志あるところに道はある”ということわざについて、意見を述べよ」という試験だった。

大学院入試の高揚が残っていたので、

「私はこのことわざの意味するところ、完全に同意します。

私はまさに働きながら大学院の受験という困難を突破してきたところなのです、

ひとえに意志の力です!」みたいなことを熱く語ったら合格で、

運のよかったことだった。

 

で、今。

外国語というものは維持する努力を払わないと忘れていくもので、

当時の英語力はだいぶ見事に失われている。

 

今どれくらいできるかというと、

外国からのお客さんを連れて観光案内するくらいならボチボチできるくらいだろうか…。

それも相手次第か。共通の話題があれば何とか。

自分が海外旅行に行ったとき、それなりに必要な情報を得るくらいもたぶん、できる。

 

でも、外国のお客さんを案内する用事もないし、

海外旅行も今はそれほど積極的に興味がないので、英語を使う機会は、ほぼほぼゼロ。

 

だいぶ失われているし、今も使っていないし、今後も使う予定もほぼないとくると、

かつて労力をつぎ込んだ価値があったのかなあ~!

なんて思うことも。

 

強いて言うなら自分のアイデンティティを形成してほぼ完成させた大学時代に、

ひとつの言語にのめりこんだおかげで、自分というものが客観的に理解できるようになったかもしれない。

日本語という言語と自分が不可分であることを、しっかりあきらめたのも、

英語を一生懸命勉強し(て、ネイティブにはなれないと心底理解し)たからなんだろうな。

 

昨今盛んな早期英語教育、私には関心がない。

習うならネイティブに習いたい・習わせたいという気持ちもない。

本人がやりたければやればいいと思う。

(「そうは言っても言語の学習には臨界期が…」という意見も知っている。その上で上記のように思う。私は。)

 

そんな私がいまさらなぜ英検1級の証明書を引っ張り出してきたかというと、

…就職に、役に立つか?

たとえば、自治体で募集している小学校の英語の教員…。

 

もちろん、児童英語の教え方の勉強も、

英語そのもののブラッシュアップもしなければいけないけど、

もしかしたら?と思ったのだった。

(この「もしかしたら?」は、自分のやる気に問うている。)

 

今現在の私の英語観に関しては、

この文章が私の言いたいことを余すことなく言い切っている。

僕は傾向的・性格的に外国語の習得に決して向いてはいないし、とくに年を取れば取るほどその「向いてなさ」が自分の中でより顕著になってきたような気がする。

最近では「もう駄目だな。これ以上真剣に語学はできないな」とあらためて思うようになった。

というか、自分の中における外国語習得の優先順位が年月の経過とともにどんどん低下しているのである。

そのいちばん大きな原因はやはり、語学の勉強に割くための時間が惜しくなってきたことだろう。

若いうちは時間はいくらでもあるし、未知の言語を習得するのだという熱のようなものもある。

そこには知的好奇心があり、何かを征服してやろうという昂りがある。

新しい種類のコミュニケーションに対する期待がある。

一種の知的ゲームでさえある。

でも四十を越して、この先どれくらいの有効年月が自分のために用意されているのかということがそろそろ気になってくると、スペイン語やトルコ語の動詞活用をやみくもに覚えたりするよりは、自分にとってもっと切実な作業があるのではないかという気持ちが先にたってくる。

(中略)

だいたい何ヶ国語でコミュニケーションしたところで、僕という人間が他人に伝えられることは所詮限られているじゃないかという思いも出てくる。 

(中略)

簡単にいえば「そんなに何もかもはできない」ということである。僕が優先順位というのはそういう意味だ。(『やがて哀しき外国語 (講談社文庫)』p.168-170)

 

村上春樹 講談社 1997年02月15日
売り上げランキング :
by ヨメレバ

こんな私がそれでも英語の教員になろうとするならば、

その意味は何だろう。意義は何だろう。

それに答えが出たときに、応募するかもしれない、のかもしれない。

プライバシーポリシー
© 2016-2018 梅つま子